アジア

タイ・カンボジア国境紛争の緊張:観光目的の移動が一部制限(2025年5月~6月)

2025年タイ・カンボジア国境紛争の緊張状態(2025年6月8日現在)

背景:2008年以降の国境紛争とプレアビヒア寺院問題

タイとカンボジアは、全長約817kmに及ぶ国境線の一部が未画定のままです。この領有権対立は、20世紀初頭のフランス植民地時代の地図に起因しています。特に、両国国境に位置する11世紀建立のヒンドゥー教寺院「プレアビヒア寺院(タイ名:カオ・プラウィハーン)」をめぐる係争は長年にわたる懸案です。

1962年、国際司法裁判所(ICJ)はこの寺院自体の主権がカンボジアにあると判断しました。2013年には、寺院に付随する領域に関する判決を再確認しています。 1 しかし、寺院周辺の土地の帰属は明確にされておらず、タイ側はICJの判決を完全には受け入れていませんでした。

2008年7月、カンボジアがプレアビヒア寺院をユネスコの世界遺産に登録したことを契機に、両国間の緊張が高まりました。国境地帯では両軍のにらみ合いが発生し、2010年から2011年にかけては砲撃を含む武力衝突に発展しました。 2 この一連の紛争で約40名が死亡し、国境付近の多くの住民が避難を余儀なくされました。

2013年のICJ判決後、両国関係は「小康状態」が続いていました。特にタイのタクシン元首相一族とカンボジアのフン・セン前首相一族は親密な関係を築き、表面上は関係改善が進んでいるように見えました。 3 しかし、国境問題そのものは先送りされたままで、両国のナショナリスト(国家主義者)勢力は根強く領土問題に敏感な状況でした。

2025年の緊張再燃:発端と経緯

2025年に入り、平穏だった国境地帯で再び緊張が高まりました。一連の出来事を時系列で追います。

発端となった事件(2月~3月)

2025年2月、カンボジア軍の兵士らが係争地域内の寺院で国歌を斉唱する出来事がありました。この行為はタイ側から挑発と受け止められ、現場は一時緊迫しました。 4 さらに3月には、三国国境付近にあった友好の象徴である施設が不審火で焼失し、地元で不安が高まりました。

国境での武力衝突発生(5月28日)

5月28日未明、タイ東北部の国境未画定地域で、タイ軍とカンボジア軍による銃撃戦が発生しました。 5 タイ軍の監視部隊がカンボジア兵による新たな塹壕の掘削を発見し、交渉に向かったところ、カンボジア側が発砲したとタイ側は主張しています。約10分間の銃撃戦の結果、カンボジア兵1名が死亡しました。 6

どちらが先に発砲したかについて両国の主張は対立しています。カンボジア国防省は「タイ軍が先制攻撃を行った」と非難。 7 一方、タイ軍は「自国領域への侵入を確認し、撤退交渉に向かったところ、誤解から発砲されたため応戦した」と説明しています。 8 幸い、両国軍上層部の緊急連絡により、短時間で停戦が成立しました。 9

外交戦と軍備増強の応酬(5月末~6月初旬)

衝突後も緊張は続き、外交と軍事の両面で動きがありました。カンボジアのフン・セン上院議長(前首相)は「一歩も引かない」と強硬な姿勢を示し、国際司法裁判所(ICJ)での決着を示唆しました。 10

一方タイ国内では、国境封鎖の噂が流れ住民が動揺しましたが、軍はこれを否定しました。 11 しかし、民族主義団体がバンコクのカンボジア大使館前で抗議デモを行うなど、国内世論は硬化しました。 12

6月2日、カンボジア国会は、今回衝突があった地域を含む係争地4か所について、ICJへの提訴を全会一致で承認しました。 13 これに対しタイ政府は、ICJの管轄権を認めておらず、二国間協議で解決すべきだとの立場を改めて表明しました。 14

対話の努力も続けられ、6月5日には両国の国防相会談が実現しました。前線の部隊配置を衝突前の水準に戻すことなどで合意し、緊張緩和に向けた前向きな姿勢が示されました。 15 しかし、その後も両軍は国境での軍備増強を続けており、互いに非難の声明を出すなど、予断を許さない状況が続いています。

軍事的動向の詳細

5月28日の衝突以降、タイ・カンボジア両軍は係争地域周辺への部隊増強を実施しました。タイ国防省によると、カンボジア側が国境沿いに部隊を追加展開したため、タイ側も増援部隊を派遣し、警戒を強めています。 16

タイ軍は、空撮画像の分析から「カンボジア側が新しい塹壕を掘削し、部隊配置を変更した形跡がある」と指摘しています。 17 カンボジア側はこれに反論し、「当該地域には以前から自軍が駐屯していた」と主張しています。両軍とも、陸軍部隊や特殊部隊、一部には装甲兵力も配備し、にらみ合いを続けています。

衝突による直接の死傷者はカンボジア兵1名のみでした。しかし、今後さらなる衝突が発生すれば、周辺の民間人に被害が及ぶリスクがあります。現地には過去の内戦時に埋設された地雷も残存しており、住民の不安は高まっています。 18

外交交渉と政治的スタンス

武力衝突後も、両国は外交ルートでの解決を模索しています。6月14日には、タイ・カンボジア合同国境委員会(JBC)の会合が予定されており、平和的解決への試金石となりそうです。 19

しかし、カンボジアが独自に国際司法裁判所(ICJ)への提訴を決めたことで、両国の立場は対立しています。カンボジアは係争地4地域のICJへの付託を決定しましたが、タイはICJの管轄権を認めておらず、二国間協議での解決を主張しています。 20

地域の平和を重視するASEAN(東南アジア諸国連合)も事態を注視しており、議長国マレーシアが仲介に動いています。 21 しかし、両国とも国内のナショナリズム世論に配慮し、強硬な姿勢を崩せない状況にあります。タイのパエトンターン首相は「友人でも家を譲れと言われたら渡さない」と発言し、国家の主権を守る姿勢を強調しました。

現地住民への影響とSNSの反応

国境地帯の住民の生活にも、今回の緊張は影を落としています。国境近くの村々では、住民が日常生活を送りつつも、戦闘再燃への不安を抱えています。タイ側では、有事に備えて避難壕を設置したり、学校で避難訓練を実施したりする動きが広がっています。 22

SNS上では、両国で愛国的な投稿が相次いでいます。タイでは軍を激励する投稿や、「#主権を守れ」といったハッシュタグがトレンド入りしました。一方で、タイ政府の対応を「弱腰」と批判する声も上がっています。カンボジアでも、フン・セン前首相がSNSでタイを非難する投稿を続け、国民から多くの声援が寄せられています。このような世論の圧力が、両国政府の外交姿勢に影響を与えています。

観光・経済への影響

国境紛争は、両国の観光産業にも影響を及ぼしています。タイ側では、プレアビヒア寺院を望む国立公園内の展望台が無期限で立ち入り禁止となりました。 23 カンボジア側も、寺院への観光客受け入れを当面見合わせています。国境を越える周遊ツアーにも一部キャンセルが出ています。

国境検問所では、タイ軍が一部地点で観光客・観光目的の出入りを実際に禁止または制限しています。特に6月7日以降、「Ban Laem」と「Ban Phak Kad」など一部の検問所では観光目的の通行が停止されています 24

経済面では、国境貿易への影響が懸念されましたが、現在のところ大きな混乱は生じていません。すべての国境検問所は観光目的の移動を除き平常通り稼働しています。しかし、今後の情勢次第では検問所が閉鎖される可能性もあり、貿易業界には不透明感が残ります。一部の保険会社は、物流保険の料率を引き上げるなどの動きを見せています。

おわりに:緊張緩和への展望

2025年6月8日現在、タイとカンボジアは一触即発の危機を避けつつも、緊張したにらみ合いを続けています。軍事的な緊張は続いていますが、外交的な対話のルートは維持されています。6月14日に予定されている合同国境委員会(JBC)の会合が、平和的解決に向けた重要な一歩となるかが注目されます。

今回の緊張は、長年の国境問題の根深さを改めて浮き彫りにしました。政治指導者間の友好関係だけでは解決できない問題であり、ナショナリズムの高まりも事態を複雑にしています。両国政府には、武力ではなく、対話と法の支配に基づく解決策を追求することが強く求められています。

参考文献:引用文献

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