李在明大統領の公判延期と憲法84条の壁:韓国司法の歴史的判断と政治的波紋
韓国の李在明(イ・ジェミョン)大統領は、複数の刑事事件で被告人となっており、その裁判の行方が国政の大きな焦点となっていました。大統領就任後、これらの裁判が継続されるのか、あるいは停止されるのかが大きな法的論争となっていましたが、2025年6月9日、ソウル高等法院(高裁)は、大統領の不訴追特権を定めた憲法第84条を根拠に、公職選挙法違反事件の公判を無期限に延期する歴史的な決定を下しました。この判断は、韓国の司法と政治に大きな波紋を広げています。
李在明大統領が抱える「司法リスク」:主な刑事事件の概要
李大統領は、城南市長や京畿道知事時代からの疑惑に関連する複数の刑事事件で起訴され、公判が進行中でした。韓国史上初めて、現職大統領が被告人として複数の刑事裁判を抱えるという異例の事態となっています。 1 主な事件は以下の通りです。
- 公職選挙法違反事件(虚偽事実公表疑惑)
- 2022年の大統領選挙中、テレビ討論などで過去の開発事業の関係者との関係について事実と異なる発言をしたとされる容疑です。 2 一度は無罪判決が出ましたが、2025年5月1日に大法院(最高裁判所)がこれを破棄し、高裁に差し戻していました。 3 もし差し戻し審で有罪が確定すれば、大統領職を失う可能性もある深刻な「司法リスク」と見られていました。 4
- 大庄洞・慰礼新都市・白坪洞を巡る不正開発事件
- 城南市長時代に推進された都市開発事業を巡り、民間業者に不当な利益を与え市に損害を与えたとする背任容疑や、不正な資金を受け取ったとする収賄容疑で起訴されています。 5
- 城南FC後援金疑惑事件
- 城南市長時代、自身が球団代表を務めていたプロサッカークラブ「城南FC」への後援金と引き換えに、企業に許認可などの便宜を図ったとされる第三者収賄の容疑で起訴されています。 6
- 京畿道庁法人カード私的流用事件
- 京畿道知事在任中、公費の法人カードを私的に流用したとされる職権乱用や背任の容疑です。 7
- その他の事件
- 過去の事件で証人に偽証をさせた疑い(偽証教唆事件)や、京畿道関連企業による北朝鮮への違法送金疑惑事件などでも起訴され、公判が進行中でした。 8
これらの裁判は、李大統領の就任(2025年6月5日)後、その進行が最大の関心事となっていました。そして今回、最も判決確定が近いと見られていた公職選挙法違反事件の差し戻し審について、ソウル高裁は憲法第84条を根拠に公判を無期限延期とする決定を下しました。これにより、他の刑事裁判も同様に中断される可能性が極めて高くなっています。 9
憲法第84条の壁:大統領の「不訴追特権」とは?
今回の判断の鍵となったのが、韓国憲法第84条です。この条文は、大統領の刑事上の特権について次のように定めています。
「大統領は、内乱または外患の罪を犯した場合を除いては、在職中に刑事上の訴追を受けない」 10
これは、大統領が在任中に国政を安定して遂行できるよう、内乱や外患といった国家転覆に関わる重大な罪以外では、刑事裁判にかけられないようにするための「不訴追特権」です。しかし、この「訴追(そつい)」という言葉が、検察による「起訴」のみを指すのか、それともすでに始まっている「裁判の進行」までをも含むのか、これまで明確な判例はありませんでした。 11
過去の大統領は、在任中に疑惑が浮上しても起訴はされず、退任後に捜査・起訴されるのが通例でした。現職のまま被告人となった前例がなかったため、この条文の解釈が大きな法的論争となっていたのです。 12
裁判所の歴史的判断:進行中の裁判も「停止」
こうした中、ソウル高裁は2025年6月9日、公職選挙法違反事件の公判期日を「追って指定する」として、事実上の無期限延期を決定しました。裁判所は、憲法第84条の「訴追」を広く解釈し、「大統領在任中は新たな起訴ができないだけでなく、すでに進行中の刑事裁判も行えない」との判断を示したのです。 13
これは、韓国の憲政史上初めて示された司法判断であり、学界の多数意見に沿ったものとされています。この決定により、李大統領の任期が満了する2030年6月まで、裁判は事実上停止されることになります。 14 本来、公職選挙法違反事件は迅速な審理が求められるものですが、この決定により判決確定は少なくとも7年以上先延ばしにされることになりました。
公判延期への各界の反応
ソウル高裁の決定に対し、韓国の政界や法曹界からは、支持と批判の真っ向から対立する反応が示されています。
与党・共に民主党「法と原則に沿った判断」
与党「共に民主党」(李大統領の所属政党)は、「憲法と法律に則った当然の判断だ」と裁判所の決定を高く評価しました。 15 民主党は、大統領就任前から「大統領に当選した被告人の刑事裁判を停止する」という内容の刑事訴訟法改正案(通称「大統領裁判停止法」)を準備していました。 16 今回の司法判断を受け、この法改正を急ぐ必要はなくなりましたが、党内では今後も必要に応じて法制化を進める構えを見せています。 17
野党・国民の力「司法が権力に屈服した」
一方、保守系野党「国民の力」は、今回の決定を「司法が権力に屈服した」「司法部の黒歴史になる」と激しく非難しています。 18 金容兌(キム・ヨンテ)非常対策委員長は、「司法部が自ら権力の顔色をうかがったに等しい」と批判。権性東(クォン・ソンドン)院内代表も「憲法84条の趣旨は、進行中の裁判を中断せよという意味ではないことは小学生でも分かる」と述べ、裁判所の判断を「司法史に残る汚点だ」と糾弾しました。 19 野党側は、検察に対し、上級審への不服申し立て(抗告)などを通じて、この判断を正すよう強く求めています。
法曹界と市民社会の反応
法曹界からも様々な意見が出ています。「国政の混乱を避けるためには妥当な判断だ」と理解を示す声がある一方で、「『罪ある権力者は裁かれない』という悪しき前例になりかねない」と、法の支配の根幹が揺らぐことへの懸念も表明されています。市民団体の間でも、進歩派は「憲法精神に忠実な判断」と歓迎し、保守派は「法治の平等を歪める決定だ」と抗議するなど、意見は大きく分かれています。
今後の展望
李在明大統領に対する一連の刑事裁判は、少なくとも彼の任期が満了するまでは棚上げとなる見通しです。これにより、韓国の司法と政治は前例のない状況に直面しています。与党は、法改正なども視野に李大統領の「司法リスク」を完全に封じ込める構えです。一方、野党は「任期後に必ず法の裁きを受けさせる」として攻勢を強めており、憲法第84条の解釈を巡る政治的・法的な攻防は、今後も続くことが予想されます。この歴史的な司法判断が、韓国の民主主義と法治主義にどのような影響を与えていくのか、国内外から厳しい視線が注がれています。
参考文献:引用文献
- 史上初の裁判中の大統領…「憲法84条」解釈めぐり論争続く見通し (京郷新聞)
- [破棄差戻し専門] 「虚偽事実公表の有無、選挙人に与える印象を基準に判断」 (オーマイニュース)
- 裁判所「憲法84条」で李大統領の破棄差戻し審を事実上中断…他の4裁判も全面停止か (ミ주中央日報)
- 李大統領の破棄差戻し審「追って指定」延期…「憲法84条による措置」 (KBS NEWS)
- 「憲法に基づき裁判延期」裁判所が初の判断 (MBCニュースデスク)
- 民主党「法と原則が正しく立った」…国民の力「司法の黒歴史」 (NATEニュース)
- 民主党、「大統領裁判停止法」の処理を延期…12日の本会議は開かれず (ハンギョレ)
- 国民の力、李大統領の選挙法裁判延期に「司法府、政治権力に屈服」 (NEWSIS)
- ソウル高裁、李大統領の選挙法破棄差戻し審を延期…「不訴追特権」憲法84条に基づき (ハンギョレ)
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