中東

6月12日イスラエル議会解散案否決、ネタニヤフ政権存続の舞台裏―超正統派の徴兵問題が国を揺るがす

2025年6月12日未明、イスラエルの一院制議会「クネセト」は、野党が提出した議会解散法案を採決し、反対61、賛成53で否決しました。連立与党内のユダヤ教超正統派(ハレディム)政党が、直前まで法案に賛成する構えを見せていたため、ネタニヤフ政権は崩壊の危機に瀕していましたが、土壇場でこれを回避した形です。 1

この政治的激震の中心にあるのは、イスラエル社会を長年分断してきた「超正統派の兵役免除問題」です。本稿では、この解散案否決に至った背景と経緯、超正統派徴兵問題の歴史、そして今後のイスラエル政治への影響について、最新情報を基に詳しく解説します。

1. 超正統派の徴兵問題:歴史的経緯と最高裁の判断

イスラエルでは建国以来、18歳以上の男女に兵役義務が課せられています。しかし、ユダヤ教の教えを厳格に守る「超正統派(ハレディム)」の神学生(イェシーバーと呼ばれる神学校で学ぶ若者)は、長年にわたり事実上、兵役を免除されてきました。 2

この特例は、1948年の建国当時、ホロコーストで失われたユダヤ教の学問の伝統を守るため、ごく少数の神学生を対象に始まったものです。 3 しかし、超正統派の人口は高い出生率により急増し、現在では徴兵適齢期の男子の約4分の1を占めるに至っています。 4 このため、兵役免除制度は「国民間の不公平」の象徴と見なされるようになりました。

最高裁判所の違憲判断

イスラエル最高裁判所は、この兵役免除について繰り返し「平等の原則に反する」として違憲判断を下してきました。そして2024年6月25日、ついに歴史的な判断を下します。「現時点で神学生を兵役対象から除外する法的枠組みは存在しない」として、政府と国防軍に対し、超正統派の学生の徴兵を直ちに開始するよう命じたのです。 5

この判決は、ハマスとの戦争が続く中で「過酷な戦争の最中で、負担の不平等は一層深刻だ」という社会の不満を背景にしたものでした。 6 イスラエル軍も人的資源の不足を訴えており、徴兵対象の拡大は急務となっていました。 7

超正統派コミュニティの主張

一方で、超正統派コミュニティは徴兵に強く反発しています。彼らは、「トーラー(ユダヤ教の律法)の研究こそが、国家の防衛と同等にユダヤ民族の存続に不可欠である」と信じています。 8 彼らにとって軍務は、信仰生活や共同体の純潔を脅かすものと捉えられており、「子どもが兵士になるくらいなら殺された方がましだ」といった過激なスローガンを掲げたデモも行われています。 9

2. ネタニヤフ政権の連立構造と政治的思惑

現在のネタニヤフ政権は、自身の率いる右派政党「リクード」に加え、超正統派政党や極右政党が参加する、イスラエル史上「最も右寄り」とされる連立政権です。 10

この連立において、超正統派の2党(シャス、統一トーラーユダヤ主義)は、合わせて18議席前後を占める重要な存在です。彼らが連立を離脱すれば、政権は過半数を失い、即座に崩壊します。そのため、ネタニヤフ首相は長年、彼らの要求である「兵役免除の維持」と「宗教教育への予算確保」を最大限に尊重し、自らの権力基盤を維持してきました。 11

しかし、最高裁の徴兵命令と戦時下での世論の高まりを受け、ネタニヤフ首相は難しい舵取りを迫られることになりました。連立内の世俗派や国防相からは「実効性のある徴兵拡大」を求める声が上がる一方で、超正統派からは「免除が法制化されなければ予算案に賛成しない(=政権を倒す)」という強硬な圧力を受けていたのです。

3. 解散案否決に至る経緯:土壇場での政治的駆け引き

2025年6月、この問題はついに政権崩壊の危機へと発展しました。

超正統派の最後通牒
6月初旬、超正統派政党は「徴兵免除法案の成立に進展がない」ことに抗議し、与党提出法案の採決をボイコット。さらに、野党が提出した議会解散法案に賛成する構えを見せ、ネタニヤフ政権に最後通牒を突きつけました。
土壇場での妥協成立
解散案採決の前日、ネタニヤフ首相や与党幹部と超正統派政党との間でマラソン協議が行われ、土壇場で妥協案がまとまりました。この合意により、超正統派政党は態度を翻し、解散案に反対することを決定しました。 12
解散案の採決と否決
6月12日未明、野党側は妥協を不服として採決を強行しましたが、超正統派政党の大部分が反対に回ったため、法案は賛成53、反対61で否決されました。 13

この採決は、野党側の「超正統派に解散カードを乱用させない」という戦略的な側面もありました。一度否決された解散法案は、議会の規則で6カ月間は再提出できないため、野党は政権に揺さぶりをかけつつも、超正統派の政治力を一時的に削ぐという目的を達成した形です。

4. 解散案否決後の政局と徴兵制度改革の行方

解散危機を回避したことで、ネタニヤフ政権は一時的に延命しました。しかし、問題の根本的な解決には至っておらず、政権の不安定さは続いています。今後の焦点は、妥協案として合意された新たな徴兵制度改革法案の行方です。

報道によると、新たな法案は以下のような内容になると予想されています。

  • 超正統派の学生にも、一定の徴兵義務が法的に課される。
  • 兵役を逃れた者に対して、何らかの罰則規定(経済制裁など)が設けられる。
  • ただし、その罰則は当初案より緩和され、超正統派側の顔も立てる形になる。

この法案が成立しても、最高裁判所が再び「不平等だ」として違憲判断を下す可能性も残っています。また、仮に法案が成立したとしても、一般の兵役経験者や世俗層の国民が「骨抜きにされた妥協案だ」と反発を強める可能性も高く、イスラエル社会の分断がさらに深まる懸念があります。

5. 国内世論の動向:深まる社会の溝

この問題は、イスラエル国内の世論を真っ二つにしています。

世俗層・兵役経験者の不満
兵役義務を果たしてきた多くの国民の間では、超正統派への優遇に対する強い不満が渦巻いています。世論調査では、ユダヤ人市民の7割以上が「免除特権を見直すべき」と回答しています。 14 特に、ガザでの戦争が続く中、「自分たちの子供だけが命を危険に晒すのは不公平だ」という感情が高まっています。
超正統派コミュニティの抵抗
一方、超正統派コミュニティでは、9割以上が徴兵義務に反対しています。 15 彼らにとって、兵役は信仰生活を脅かすものであり、「徴兵されるくらいなら投獄を選ぶ」という強固な抵抗姿勢を示しています。共同体として兵役を拒否する同調圧力も非常に強いのが現状です。

この両者の意識の隔たりは、イスラエル社会の深刻な分断を象徴しています。「国民の義務」をめぐる価値観の対立は、簡単には埋めがたいものとなっています。

6. 国際社会の視点

イスラエルの内政問題であるこの対立は、国際社会からも注視されています。特に、イスラエルの最も重要な同盟国であるアメリカは、戦時下にある同盟国の政権が内紛で不安定化することを強く懸念しています。 16

欧州諸国や、世界各地のユダヤ人コミュニティからも、イスラエル社会の分断や民主主義のあり方について懸念の声が上がっています。特に米国のユダヤ人社会からは、「兵役の不平等が、イスラエルとディアスポラ(国外在住ユダヤ人)との溝を深める」との指摘もなされています。

おわりに:危機は先送りされただけか

2025年6月12日の議会解散案否決は、ネタニヤフ政権にとって一時的な延命措置に過ぎないかもしれません。根本的な問題である超正統派の徴兵問題が解決されない限り、政権は常に不安定な状態に置かれ続けるでしょう。

この問題は、単なる国内の政治課題にとどまりません。それは、「国民とは何か」「国家への義務とは何か」という、イスラエルという国家の根幹をなす社会契約そのものを問い直すものです。今後、イスラエル社会がこの深刻な分断を乗り越え、すべての国民が納得できる解決策を見いだせるのか。その行方は、中東地域の安定、そして世界の民主主義国家のあり方にも影響を与える、重要な試金石となるでしょう。

参考文献:引用文献

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